第6次元:日本国という生命体の目標設定について①

先までは、第1~10次元における方向性について見てきた。今度は、具体的な目標設定にまで踏み込んでみたい。目標設定が出来れば、どうやって行動すれば良いか、メドが立つのであろうから。

 

なお、繰り返し記載するが、我々は1つの次元だけに意識を置いているようでは、上手く立ち回ることができない。常に4つも、5つも、多ければ10もの次元を同時に意識していくことで初めて、上手く立ち回ることが出来るのである。それゆえ、これから1つずつ、各次元での目標設定の立て方を記載していくので、実際にやってもらいたい。同時に意識していくことはとても難しいのだが、やっていくことで少しは慣れて出来るようになってくるのだから。今回は、第6次元:日本国の目標設定について見ていきたい。

 

第6次元:日本国の目標設定について

まず目指すべきは、日本国という生命体の各部位を担っているのは自分である!と認識することから始まる。そう、当事者意識を持つと言うことだ。もちろん、自分はオリンピックの代表選手でもないし、自分がスポーツ界の代表だ!政財界の代表だ!と他の人にしゃべると、それは違うでしょ!と思われるかも知れない。それゆえ、頭の中で、自分は日本国の代表だ!と意識するだけで良い。

 

当事者意識を持つと、今度は、日本国という生命体の各部位の役割に注目する。各部位の役割を自分は担っているのだから、きちんとした仕事をしたい!と思うだろう。当事者意識があれば、そう思えるのだ。しかし、当事者意識がないと何をすれば良いですか?指示をください!と指示待ちになって、何一つ考えることを放棄してしまう。これでは何も進展しない。

 

それゆえ、日本国という生命体を進展させるためにも、まずは各自が当事者意識を持つことから始まる。そうして、イメージしてみるのだ。自分が日本国の身体の一部として右往左往しながら日本国を支えているという感覚を。そうすると、興味が湧いてくるはずだ。例えば、北陸の代表だ!としたとしよう。すると、北陸の経済はどうなっていて、主要産業の動向はどうなっていて、今はどこに問題を抱えているのか、そんなことが気になるはずだ。それにも増して、北陸経済はどうやって誕生したのか?そして、どこに向かって動いているのか?どんな力が作用しているのか?ということが気になるだろう。

 

・北陸の変遷について 以下こちらより抜粋

北陸に多核的な広域構造が形作られた背景には、 地域的な工業化の歴史がある。後発資本主義国の日本では、殖産興業政策による国家主導の上からの工業化の推進力が強かったが、北陸の各都市はそれぞれ独自に地元の工業化を模索し、それを地域経済の自律的な発展の基盤として積み上げて、他地域の支配が浸透するのを防いできた。

 

加賀百万石の城下町であった金沢は、明治維新直後、それまでの支配階層であった武家の資産を元手に、士族授産のための製糸工場や国立銀行を設立した。ところが、明治初期の松方デフレで、工場は倒産し、銀行は富山系の国立銀行に吸収合併された。士族資本のストックは近代資本にほとんど転化できず、金沢は明治前半30年で人口の約3分の1を失う衰退期を経験した。そこから金沢が復興を遂げたのは、伝統的な職人的工芸品に寄りかからず、地元の実業家が近代的な機械生産の工業製品の製造を確立したためであった。 その基礎となったのは、産業連関を通じた技術と事業のイノベーションである。新興の絹織物業と織物製造機械=織機工業との間で密接に協力し、発明家を支援し、技術を向上させてきた。また、繊維産業は、産元商社の下に組合を組織し、生産と流通部門が産地機構として一体となって、大手の川上企業(糸メ ーカー)や総合商社に対抗してきた。 

 

金沢の場合、都市コミュニティを背景にして異業種が結びつく都市型集積と、産業連関を通じて形成された産地型集積とが重なりあって、産業の地域内多角化を進める基盤となった。資本規模の大きくない個々の企業は特定専門分野に特化しつつ、その協力企業の中から技術を応用して他分野に進出するも の、あるいは、地域内市場と地域内の技術を組み合わせて、ニッチ(隙間)市場を開拓し、全国市場に売り出していくパターンが見られた。 1970 年代の不況から繊維産業は凋落して大手原糸メーカーの傘下に入り、繊維機械メーカーの淘汰も進んだが、代わって多様なタイプの産業機械メーカ ーが成長した。繊維機械に特化して生き残った津田駒工業、工作機械に転換した中村留精密機械工業、酒造業のニーズからボトリングマシンを作り出した澁谷工業などが、いまでも地域を代表するメーカーである。こうして金沢では、製造部門だけでなく本社部門や第三次産業が発達し、都心の求心力が高く、地元の経営者が地域文化に愛着を持つような形で、内発的な工業化が進められてきた。 

 

福井の場合は、明治期に金沢に先んじて絹織物業を興したが、少しパターンは違っていた。福井は、技 術を外から学んで取り入れる学習能力に長けていた。 絹織物製品である羽二重の製織技術は桐生から技術者を招いて伝習された。また、織物を仕上げる際に絹の艶出しのための精練という工程があるが、かつて福井ではこの工程の質が悪く粗悪品が濫造される原因となっていたため、当時の福井県工業試験所が技術者を地域外から招聘して独自の精練法を開発させ、 地域の精練企業 10社を統合してこの技術を適用させた。これが、現在のセーレンという福井の代表的企業につながっている。

 

富山は、金沢・福井と違って、自前の工業技術の構築にあまり長けていなかった。織物業は富山県にも 伝播したが、福井県・石川県ほどの事業規模に至らず、 売薬業の基盤があったにも関わらず、西洋医学の浸透などに乗り遅れた。明治期を通じて富山県は工業化に遅れを取ったが、富山には近世からの売薬業や 廻船問屋などを通じて形成された商人系資本の蓄積があり、銀行も松方デフレを生き残って、資本基盤は比較的充実していた。金沢が、地域内の取引の中から新しい事業を生み出す産業連関のパターンで発展したのに対して、富山では、地域で共同出資して会社を設立するという資本展開型のパターンで新規事業を興してきた。それも同族的な財閥にはならず、共同出資で所有と経営が分離され、専門的経営者の役割が大きかったことが特徴的である。 

 

大正期から昭和初期にかけて富山の工業化の主役を担ったのは電力会社であった。富山の資産家たち は、豊富な水資源を利用して共同出資で電力会社を設立した。地元電力会社は、大都市系の資本が北陸の水資源を開発し大都市に電力を送電していくのに対抗し、地元に需要先を創り出すために、電力消費型の重化学工業の工場誘致を進めた。当時の最先端技術に挑戦する重化学工業は、地方に展開するほど成熟 していなかった。 そこで、地域外の企業を誘致して技術を移植しつつ、設立された会社には電力会社を中心に地元も出資してリスクを負い、労使一体となって独自の技術基盤を確立する努力を続けた。誘致企業を地域の共同出資グループに取り入れることで、長期にわたって立地を継続する重化学工業の基盤が作られた。ただし、その後富山県は、1970年代に新産業都市の指定に伴う行政主導の企業誘致には失敗し、このときの立地企業は地域に根づかなかった。

 

以上をまとめると、北陸には、それぞれ異なるタイプの発展様式があり、産業集積の性格や、技術や資本の導入形態に違いがあることがわかる。

 

加賀藩について

江戸時代、加賀(石川県南部)、越中(えっちゅう)(富山県)、能登(のと)(石川県北部)3国にまたがる前田氏の所領を加賀藩という。1583年(天正11)前田利家能登23万石のほか、新たに石川、河北(かほく)2郡を豊臣秀吉から与えられたことに始まる。その後、能美(のみ)、江沼(えぬま)2郡と石川郡松任(まっとう)4万石を除く加越能3国にわたる82万石余の大名となった。1639年(寛永16)3代藩主利常は長子光高に80万石を与えて本藩を相続、次子利次に越中国婦負(ねい)郡10万石、三子利治に加賀国江沼郡7万石を与えて富山藩、大聖寺藩を分藩、自らは越中新川(にいかわ)郡22万石の養老領をもって小松城に隠居した。1658年(万治1)利常の死により養老領は本藩領となり、102万5020石の大藩として藩末に至った。いわゆる「加賀百万石」である。

 

文化面では前田利常が学問、工芸を奨励、5代藩主綱紀も学者、文人を招き、尊経閣文庫を創置し、細工所を拡充して王朝・桃山工芸を伝承、元禄工芸の一大コレクションである百工比照を完成した。以後の文化政策にはみるべきものはないが、12代藩主斉広の竹沢御殿と兼六園、13代藩主斉泰の巽御殿 成巽閣がある。

 

 

北陸地域は、江戸時代の加賀藩から明治時代以降の近代化への変遷に苦慮し、乗り遅れつつも何とか地元産業を振興させようという地元愛により、発展してきた地域と言える。もし、他の地域のように近代化に乗れて入れば、もっと違った地域特色が出たのかも知れない。自分が北陸代表だ!と仮に意識するのであれば、”地元愛”というのが一つのキーワードになることは間違いないのだろう。この”地元愛”なるものを無視して、この地域に産業を興そうとしても、難しいということが歴史から見ても分かる。

 

このように、地域毎にキーワードは異なるのであり、それを束ねて日本国という生命体が出来上がっている。もし、この日本国が世界経済の意のままの方向性に進んでいるとしたら、各部位である地域や産業や経済や政治は何が出来るのであろうか?このまま、日本国という生命体が消滅するまで、世界経済の意のままに、ただただ言われたとおりに実行するだけの良い子ちゃんなのであろうか?何か出来ることはあるのか?と考えるだろう。

 

これが当事者意識というものだ。日本国という生命体の各部位を構成している我々は、今、何をすれば良いのだろうか。何が出来るのだろうか?こう考えることで、何か、行動のヒントが見えてくるはずだ。それが結局は目標設定となり、行動指針に繋がっていくということだ。まずは、当事者意識をもって、問題を確認していくことから始まるのだ!