第6次元:日本国の方向性とは③

先に組織のバランスについて記載した。いかにバランス感覚が重要かが理解できたと思う。ぜひやってもらいたい。さらに、もう1つ組織のバランスで付け加えるとしたら、以前から記載している第1次元~第10次元までの視野をバランス良く持つことであろう。何せ、第1次元~第10次元までの生命体の維持・運営の仕組みを参考にすれば、第3次元:ティール組織という生命体の維持・運営の方法が全然違って見えてくるのだから!

 

ということで、今回も第6次元:日本国という生命体について見ていくことにする。日本国という生命体が、今後どのような方向性に進んでいくのであろうか、それを見ていきたい。

 

使い捨て文化 こちらより抜粋。

使い捨て文化について、まずは「家」から見ていく。家族・個人・もしくはパートナーや友人などが生活の拠点とするものであり、その在り方も様々である。国が異なれば文化が異なるように、住宅の事情も様々。「日本」と「欧米」の住宅事情を見ていけば、その違いは明らかだ。

オランダ 街並み

 

私たち日本人が「持ち家を持つ」ということを考える際に、「長期間のローンを組んで戸建なりマンションなりを購入する」「子供はその家を引き継がず、新たな住まいを得る」というイメージを持つことが多いのではないだろうか。これが世界と比較してみると、こういった考え方はだいぶ異なる。特にイギリス・アメリカ・ドイツといった国と日本を比較しながら、その違いを見ていこう。

 

家の「寿命」の違い


どんな建物も「つくられたもの」である以上、寿命がある。家も同様で、その「平均寿命」を上記4か国で比較したとき、イギリスは約80年、アメリカは約65年であるのに対して、日本は半分以下程度の約30年という結果が出ている。ドイツは旧西ドイツと旧東ドイツで水準がちがうので一概に言えないのだが、築年別で見た住宅の構成比率はイギリスよりも新しく、アメリカよりも古い家が多くなっている。特にイギリスやドイツでは築100年以上の住宅が珍しくなく、中には築300年以上という家も修繕を繰り返して大切に住み継がれている。そしてその資産価値は(丁寧にメンテナンスされていることが大前提ですが)とても高いのである。

 

また、日本でも最近リノベーションなどが盛んになり、注目を集める中古住宅の市場に目を向けると、新築も含めた住宅の流通数において中古住宅が占める割合はイギリス約90%、アメリカ約85%であるのに対し、日本は約15%とかなり低い割合である。リフォームに限って見ても、ドイツ約60%、イギリス約55%であるのに対し、日本は約30%。つまり彼の国では家を長持ちさせた上で、それが引き継がれていくような市場や文化がある一方で、日本では家を引き継ぐ・保つ文化や中古住宅市場が重視されてこなかったということが考えられる。

 

日本とドイツの共通点と相違点


ここで注目したいのは「戦後復興があったか否か」だ。日本に古い家が少ないのは空襲があったからだ、という意見があるとすればそれはある側面では正解で、ある側面では間違いであろう。ご存知のように日本は太平洋戦争での空襲により、市街地の多くが焼け野原になった。しかし、規模の違いはあれ、それはドイツもイギリスも同様である。特にドイツは日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国で、大戦中に都市部の大半が壊滅的なダメージを受けた。その為、戦後は急ピッチで復興を目指していく必要があったのですが、ここで政策の違いが生まれる。

 

日本はまず産業を再生させて国民の所得を上げ、「住宅金融公庫」を設立して「各個人にそれぞれ家を購入してもらおう」という政策をとった。その結果として業界内の競争が生まれ、安価で施工しやすい部材を使った「お手軽な家」が数多く建てられた経緯がある。こういった家はメンテナンスも難しく、建てた後はどんどん劣化していくだけなので、家の寿命が約30年というのもいたしかたないことで、結果、「家を使い捨てにしている」と言っても過言ではない現状となっているのである。

 

一方でドイツは「社会住宅(国の低金利融資によって建てられた賃貸住宅)」を大量供給したのち、情勢が落ち着いてくると「量」ではなく「質」の向上を重視する方針へと転換した。現在でも各州の建築基準令や「DN規格(ドイツ工業規格)」によって住宅に使われる建材に厳しい基準がもうけられるなど、「環境先進国」と呼ばれるのにふさわしい住宅のクオリティを誇るようになっている。

 

「使い捨て文化」からの脱却


こうして考えると、ある意味で家が「使い捨て」となっている現状は、そのまま日本が歩んできた「使い捨て文化」を象徴しているような気がする。古代の昔から丁寧なものづくりを誇った日本のDNAは、戦後まもなくから現代にいたるまで脈々と受け継がれている。そうでなければ、「メイド・イン・ジャパン」がこれほどまでに世界中で評価を得ることはなかっただろう。しかし、明治維新からの「世界に追い付け追い越せ」の流れと、戦後復興からの「急激な経済の成長と表面だけの欧米化」といった流れの中で、「素材を大事にする」「限りある資源と上手く付き合う」という、先人が持っていた大事な考えが抜け落ちてしまったのかもしれない。

 

 

プラスチックの事例

今度は、プラスチックの事例を見てみよう。昨今世界中で大きな問題となってきた海洋プラスチック汚染は、私たちのライフスタイルも社会や経済の仕組みも「使い捨て文化」をベースにしているところから生じている。プラスチックはだれもがお世話になっているからこそ、「ひとりひとりの行動を変えなくてはならない」というメッセージでもある。そして、世界中で、実際に「使い捨て」を卒業しよう!という動きが大きくなってきているが、残念ながら日本は多くの点で遅れをとっている。レジ袋、ペットボトル。使い捨て容器、過剰包装、そして食品ロス。具体的な各国の取り組みや状況は非常に参考になる。

 

たとえば、フランスには「食品廃棄禁止法」という法律があって、店舗面積が400平方メートルを超えるスーパーマーケットに対し、売れ残って販売できなくなった食品の廃棄を禁止し、その食品を慈善団体に寄付すること、人の食用に適さない食品は家畜の飼料や肥料に転用することを義務付けていて、違反すると罰金が科せられるのだ。

 

日本の使い捨て文化といえば、数十年前なら槍玉にあがりやすかったのは割り箸と相場が決まっていたが、最近ではプラスチック類ではないか。むろんレジ袋やストローは諸外国でも使っているが、この数年、プラスチック製品が適切に処理されず海洋に垂れ流しになっているマイクロプラスチックの問題なども問題視されるようになってきている。

 

医療機関や大規模な給食施設などでは仕方がないかと思うが、日本人の社会では過度に「清潔」にこだわる傾向があり、使い捨て手袋、使い捨ておしぼり、使い捨てストロー(もちろん1本ずつ個別包装)など、枚挙にいとまがない。そして小規模な飲食店などでは、素手をこまめに、ていねいに洗うよりも「客に厨房を見られたとき何か言われるから」といった理由で使い捨て手袋を使う場合もあるのではないか。他人が素手で作ったおにぎりは食べられないという人も実際にいるそうだから、店の客層によっては、手袋を使うこともあるだろう。


だが少人数のスタッフが交代しながら厨房に立ち、給仕し、食器を下げ、会計をする店ならば、作業のたびごとに使い捨て手袋を交換していたら、おそらくすさまじい量になるはずだ。うっかり取り替えるのを忘れるくらいならば素手をきっちり洗ってもらったほうがありがたいと思う客もいるはずで、使い捨て手袋を過信している人たちは、おそらくなかなか減らないだろう。

 

 

日本人は、いろいろなものを使い回して節約してきた昭和中期くらいまでの社会にあった良さを、カネと合理性という理屈の前にどんどんと捨て去ってしまったのだろう。あともどりができないなら、カネと合理性があって、なおかつ使い回したほうがいいと思えるだけの発想の転換を、なし遂げなければならない。「もったいない」の心が失われたならば、「使い回したほうがカネが儲かる」という理屈を作らなければ、この社会はなかなか動かないのではないだろうか。

 

いずれにしても、日本国の方向性は、「使い捨て文化」を脱することにある。モノや金が豊富にあるからこそできる「使い捨て文化」だろうが、今後はそれが難しいほど、経済は伸び悩むだろう。あらゆるモノは生き物であり、魂が入っており、尊重されるべきだ!とする八百万神の精神が戻ってくれば、そう簡単に加工品であっても捨てられないハズだ。消費を促し、大量生産・大量廃棄による経済を回す昭和的な経営手法は今後は難しくなる。

 

江戸時代は、究極のエコ社会であった。江戸の人たちは、飽きたから、壊れたからといって簡単には捨てない。そのため、不用品を回収する職業が成立していたほどだ。紙屑を拾う人、かまどの灰を買う人、肥だめから肥を買う人など、実にさまざまである。庶民に限らず、古着屋を利用することも当たり前であった。単衣の着物を寒くなれば綿入れに縫い直し、古くなれば寝間着にした。さらに、オムツになり、最後は雑巾として使用した。これが江戸的な経営手法だ。

 

昭和のバブル期を経て、平成、そして令和に至る現在は、昭和のままの経営モデルで成り立つのか?というとそれは難しい。原点回帰という意味でも、江戸時代は回帰するに相応しい立派な文化なのではないだろうか。これから日本国が何処に向かうのか。それを決めるのは政治家ではない。我々個人なのだから、しっかりと国の未来の方向性を、各人が持たねばならないのだから。