第6次元:日本国の”社会性”を参考にする

先に第6次元:日本の”天皇制”について記載した。今回は、”社会性”について記載したい。

 

我々は、日本人であり、日本国に属している。このような強烈な社会性が一体感を生んでいるのであり、他の国以上に強固な連帯感を持つ要因となっているのであろう。では、社会性とは何なのか?を見ていきたい。以下、こちらより抜粋

 

マーク・W・モフェットは昆虫の生態を研究するフィールド生物学者で、「昆虫学界のインディ・ジョーンズ」の異名をもつ。『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』(早川書房)では、そんなモフェットが、さまざまな生き物の「群れ」を論じている。

 

収斂進化というのは、「環境が同じであれば、進化の系統が異なっていても、同じような形質をもつようになる」という進化(自然淘汰)の原理だ。よく知られているのがオーストラリアの有袋類で、旧大陸に広く分布する胎盤のある哺乳類がいないため、ネコとフクロネコ、アリクイとフクロアリクイ、モモンガとフクロモモンガ、オオカミとフクロオオカミなど、旧大陸の動物ときわめてよく似た有袋類が独自に進化した。

 

ここからわかるのは、生き物の生態が似てくるのは、遺伝的にどれだけ近いかだけでなく、環境も重要だということだ。アリとヒトは、自然界のなかでよく似た環境のなかで暮らしている。なぜなら、何億という巨大な群れ(社会)をつくる生き物は自然界に社会性昆虫とヒトしかいないから。モフェットは、「人間の社会は、私たちがあまり信じたくないほどまでに、社会性昆虫の社会に似ている」という。わたしたちはアリと同じく、「とてつもなく大規模な社会を維持する」という強い制約を受けているのだ。

 

 

この本の最初で、アルゼンチンアリという社会性昆虫のきわめて興味深い生態が紹介される。もともとアルゼンチ北部に生息していたが、1900年代のはじめにコンテナに紛れてカリフォルニアにやってきた。この小さな社会性昆虫の生態を調べた研究者たちは、2004年まで、「アルゼンチンアリは全員がひとつの幸せな家族に属している」と考えていた。バークレー(カリフォルニア)の自宅にいるアルゼンチンアリを1匹つまみあげ、820キロメートル車を走らせてメキシコ国境まで行き、そこで離したとしても、なんの問題もなく社会に溶け込み、自分の仕事を始めるからだ。

 

だがその後、まったく偶然に、異なる地域から採取したアルゼンチンアリのサンプルを一緒にすると、すぐさま激しい戦いが始まり多くのアリが殺された。この「事件」によって専門家たちのアルゼンチンアリに対する考え方が一変し、いくつかのコロニー(社会)に分かれていることが判明した。カリフォルニアにはアルゼンチンアリの4つのスーパーコロニーがあり、ラージ・コロニーはメキシコとの国境線から、サンフランシスコを通ってカリフォルニアのセントラルバレーまで延びている。南カリフォルニアの残りの地域はレーク・ホッジス・コロニーの縄張りで、面積は50平方キロメートルにおよぶ。

 

両者の境界はサンディエゴ郊外にあり、短く刈り込んだ芝生の根元にできた細長い線が「国境」だ。境界線をわずかでも超えればたちまち「国境監視隊」に発見され、殺されてしまうからで、小さな死骸が重なって山になっている。「そこでは毎月、100万匹以上のアリが命を落とす。おそらくは史上最大の戦場と言えるだろう」とモフェットはいう。原産地のアルゼンチンでは、アリたちはたくさんの小さなコロニーに分かれ、縄張りの争奪戦を繰り広げていた。だがそのうちの数匹が荷物に紛れ込み、ライバルのコロニーが存在しない北米にやってきたことで、数十年かけてとてつもなく大きなコロニー(スーパーコロニー)をつくりあげた。そして、とうとうこのコロニーが他のコロニーと接触したことで、終わりのない殺し合いが始まったのだ。

 

ヒトの近縁種であるチンパンジーボノボも群れをつくるが、どんなに多くても100頭前後で、全員がお互いをよく知っている。メンバーを個体として認識することが群れの条件になっていて、認知的制約を超える(全員を覚えられないくらい個体数が多くなる)と分裂して別の群れをつくる(チンパンジーは120頭を超えると群れを維持できずに分裂し、ボノボはそれより少ない)。数百万や数億はもちろん、数千のメンバーがいる社会をつくる場合でも、この認知的な限界が大きな障害になる。大規模な社会には、「相手が誰かは知らないが、同じ社会に属していることはわかる」という仕組みが必要なのだ。モフェットはこれを「匿名性」という。

 

匿名性の社会には、「アイデンティティを表す共通のしるし」がある。アルゼンチンアリではこの“しるし”は匂いで、それぞれのコロニーごとに遺伝的に微妙に異なる「炭化水素の分子構造」をもっている。それが一致すればどれほど地理的に離れていても同じ社会のメンバーとして受け入れられるが、匂いが異なれば「敵」として殺される。モフェットが強調するのは、ヒトもこれと同じ「本性」をもっているということだ。なぜならそれ以外に、匿名性の大規模社会を維持する方法はないのだから。

 

 

ヒトは、言葉を「俺たち」と「奴ら」を分ける強力な“しるし”にしている

国家を成立させるには、「なじみのないメンバーが自分の近くにいても気にならない」ようにならなければならない。チンパンジーは見知らぬ個体と出会うと、生殖の機会でないかぎり、その場から立ち去るか闘争する。それに対してわたしたちは、「見知らぬ人がいっぱいいるカフェにまったく平気で入っていく」ことができる。この一見すると何でもない行為こそが、「人類が成し遂げたことのなかで最も正しく評価されていないことのひとつ」だとモフェットはいう。

 

お互いが他のメンバーを個体として認識できないほど大きな社会をつくるには、“しるし”が必要だ。アリではアイデンティティの“しるし(匂い)”は遺伝的に決定されているが、ヒトのアイデンティティは歴史的・社会的につくられる。現代社会では、もっとも影響力の大きなアイデンティティは「国家(国籍)」で、それに「宗教」や「人種」「民族」がつづくことになるだろう。

 

だがこれは、アイデンティティは恣意的でいつでも取り換えられるということではない。いったんできあがったアイデンティティは「社会的現実」としてひとびとを強く拘束する。こうして「日本人vs中国人/韓国人」「黒人vs白人」「ヒンドゥーvsムスリム」などのアイデンティティ対立が起こる。この対立の構図は、生物学的にいうならば、異なるコロニーに属するアルゼンチンアリの「群れの対立」と同じなのだ。

 

ヒトは社会を構築するためにさまざまな複雑な“しるし”を使うが、そのなかでもっとも重要なのは「言葉」だ。理想主義者のいうように、ヒトが他者とつながる本性をもっているならば、さまざまな言葉はコミュニケーション可能なように徐々に似てきて、やがてはひとつの言葉になるはずだ。だがバベルの塔の神話が示すように、実際に起きたのはこの逆で、共通の言葉が、コミュニケーション不可能なように「群れ」ごとに分離していく(かつては同じ「ユーゴスラヴィア語」を使っていたセルビアクロアチアでは、わずか20年あまりで異なる言葉を話すようになった)。これはヒトが、言葉やイントネーションを「俺たち」と「奴ら」を分ける強力な“しるし”にしているからだ。

 

地方からの転校生が、方言を理由に「よそ者」扱いされるのも同じだろう。ヒトは言葉以外にも、刺青、髪型、服装、歩き方、仕草など、きわめて多様な“しるし”を駆使して社会をつくっていく。これはヒトの本性で、わたしたちはある特定の社会に属していないと「存在」することができない。個人というのは、特定の社会の“しるし”すなわちアイデンティティをもつ者のことで、いかなるアイデンティティももたないのは「人間」ではないのだ。

 

社会への帰属意識が強い感情を喚起し、熱狂や多幸感を生み出すようにヒトは進化した。そのポジティブな面が「仲間意識(一体感)」で、ネガティブな面が「排除(差別)」だ。これはコインの裏表のような関係なので、ネガティブな面をなくしてポジティブな効果だけ享受することはできない。社会=アイデンティティをつくることは、「俺たち」ではない(“しるし”をもたない)者を排除することなのだ。

 

 

・日本国における社会性

日本国には、日本語という言葉がある。この言葉が、世界ではロシア語や中国語と同様、かなり難しい部類に属している。何が難しいのか?基本的に日本語は話すのは簡単なようだ。それは発音が複雑じゃないのと、日本語は1つの言葉が自立しているので、適当に単語並べても最低限、外国人日本語として分かってもらえるからであろう。外国人で簡単と言ってる人はここまでの人がほとんどだ。

 

しかし、本当に日本語をさらに覚えようとするとかなり複雑で難しい。 まず、漢字の問題がある。読めたり、メールで漢字変換して使える人も結構いるが、日本人であっても全部覚えている訳ではないのでまずはこの壁にぶち当たる。それプラス、ひらがなとカタカナを交えた構成だ。『、』の使い方も曖昧で難しいようだ。 それに日本語は敬語や古典的な日本語も存在する。中には『です。ます。』付ければ敬語だと思っている人もいるが、我々日本人でもちゃんとした敬語を使っている人は少ないのだろう。

 

要は日本語はとても流動的で応用が利く言葉だと思う。単に言葉だけでなく文化や時代なんかも分かっていないと把握できない言葉もあるのだから。そう考えると、かなり複雑で難しいと思う。日本語の起源をさかのぼると、はるか旧石器時代にまでさかのぼるのかもしれない。旧石器時代のものとされる「カタカムナ文献」があり、それによると、超高度な文明が兵庫県の六甲山近辺にあったことが天才物理学者・楢崎皐月博士によって明らかにされている。日本最古の文字であるカタカムナが話されていたという事実が残っている。

 
私たちの文明の奥にある人々の営みは、性に始まり性に終わると言われ、その正しい性の表現が失われてきた結果、すべての社会的秩序は混乱を極め、現代の人々の心をむしばみ、正しい行いがどこにあるのかわからないような状態を呈している。カタカムナのウタヒでは、そうした性の真理を宇宙物理とつなげ、宇宙の根本は生命であり、私たちの社会をつなげていくための最も重要な行為が、人々が行う性にあることを示している。今、混乱の極みを迎え、正しい社会づくりを目指すために、時代はまさしくこの古代の叡智、宇宙物理学カタカムナを示してくれているのであろう。

カタカムナでは潜象界のことを「カムの世界」、そして三次元物理世界(現象界)のことを「カタの世界」と言い、全ての命や物質は「カムの世界」から生まれる段階で、質的に転換(ナ)した結果、命や物質が存在する「カタの世界」ができていくと示している。その事を「カタ・カム・ナ」と言う。この二つの世界は質的転換を伴いながら常に循環しており、その循環のことを「天然循環」と言う。このような壮大な起源を持つ日本語を、我々は日々使っているのであり、使えば使うほど、カタカムナの精神である宇宙へとつながっていくのかもしれない。
 
 
このように、我々が社会を構築して維持している方法として、”しるし”というものが極めて重要な要素となっている。特に日本国は日本語という、他の国には真似できない、壮大な言語を使っているのであるから、日本国は途絶えることなく常に安定して存続できたのかもしれない。同じように考えると、会社が安定的に存続するためには、他の会社が真似できない”しるし”なるものを見つけることができれば、そしてそれを会社内に普及させることができれば、存続出来うるのかもしれない。

その”しるし”なるものが何なのか?は、各企業によって異なるのであろうが、極めて重要な要素となる。会社内の公用語として特殊な言葉を広げていくのか、それとも社員証を常に身に付けさせるのか、それとも波動レベルなどの複雑な概念を共有するのか、いろんな方法があるだろう。ただ言えることは、真似できるような安易な”しるし”ではダメなのだ。カタカムナのように宇宙に繋がるような壮大な”しるし”でないとダメなのだ。
 
それを、それぞれの企業で模索することで、安定的に存続出来うるのであれば、見つける努力はしてみたいところだ。