第6次元:日本国の”天皇制”を参考にする

先に第3次元:会社という生命体について記載した。今回は、第6次元:日本国の”天皇制”について記載したい。

 

日本国は第6段階(Lv6):多元型組織を長く経験し、いよいよ、次の第7段階(Lv7):進化型組織(ティール組織)へと突入しようとしている。世界でも最も波動レベルが高い、最先端の国のといえる。他の国で、ティール組織の運営をしている国は見当たらない。日本国ほど、和を尊び、わびさびを好み、八百万神を尊重し、人に合わせる文化を持ち、長くやってきた国は無いだろう。だからこそ、いよいよ、世界の先頭にたち、波動レベル7へと世界を導いていく存在となるのである。

 

では、なぜ、日本国はそのような長い期間、第6段階(Lv6):多元型組織を維持し続けられたのだろうか?その疑問について検証してみたい。以下、こちらより抜粋

 

天皇制という独自の文化

世界に王制を抱える国家は少なくない。先進国では北ヨーロッパに集中し、それ以外では中東が目立つ。これをどう理解すべきか。中国やヨーロッパから見れば、一人の王の領域ほどしかない日本列島が、今なお、皇帝さえ超えるほどの意味をもつ象徴を抱えているということになる。王朝が交代する中国(易姓革命)やヨーロッパと比べ、「万世一系」とされるように圧倒的な歴史の長さがあることは事実である。というより「これ(天皇家)だけは変わらない」というのが日本文化の特質である。  

 

現実の歴史においても「天皇」は、政治権力者である期間はほとんどなく、むしろ権力者に担がれる存在であった。その意味で天皇と権力者の関係は、ヨーロッパにおけるローマ法王と各国の王あるいは神聖ローマ皇帝イスラム圏におけるカリフとスルタンの関係に似ているが、天皇は、ローマ法王やカリフのような完全な宗教者とはいえない。そこに、権力者でもなく、宗教者でもない、文化主催者としての姿が浮かび上がる。

 

視点を変えて、文学から日本文化と天皇の関係を考える。 日本文学では、住まいを表すのに「家」と「やど」という、同じ意味の二つの言葉がもちいられる。「わがやど」は旅の宿ではなく「自宅」を意味するのだ。『万葉集』において、「家」は「人の空間」、「やど」は「草花の空間」として使い分けられたのだが、『古今和歌集』以後、和歌集の中では必ず「やど」が使われるようになる。そして天皇は、その「和歌」という文化の主催者となるのだ。ここに、遣唐使を廃止して中国文化と対等の価値をもつ「日本文化」を定立する意識が見て取れる。つまり天皇」は、中国の影響を受けながらも中国に対峙するという意識のもとに成立する文化象徴なのである。以後、天皇は「家」という「人の空間=俗世間」ではなく、「やど」という「草花(花鳥風月)の空間=美意識」の住人となる。

 

日本文化に詳しいアメリカ人は「日本には思想の代わりに美意識がある」というが、これは慧眼である。つまり天皇には、政治家でも宗教家でもなく、文化主催者としての意味があり、日本的美意識の象徴としての意味があるのだ。しかもそれは、外国の王や皇帝のもつ豪華絢爛の美ではなく、「もののあはれ」や「侘び寂び」といった言葉でも表現される、素朴で清らかな、ある種「清貧」ともいえる美意識である。この点こそ、内外を問わず人々に受け入れられやすい日本天皇制の特質であろう。

 

現時点で、日本には天皇を否定する思想も理論も存在しない。われわれは、この世界にも稀な文化象徴を、末永く、より良い方向に、守っていく覚悟が必要である。つまり天皇家とともに国民もまた努力すべきなのだ。革命と大統領制という「完全民主主義」の理念からは外れるところもあるこの制度に対して、世界に理解を求め、大切にすることに共感を得る努力が必要なのだ。近隣国の現実を考えれば、これは簡単なことではない。

 

 

天皇のはじまり 以下、こちらより抜粋。

天皇号の始まりは、飛鳥時代(=古墳時代終末期)である。672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、従来の「大王」にかわり天武「天皇」と称し即位した。大王は、ヤマト政権内の「王」である各豪族のリーダー的存在だったのに対し、天皇はその次元を超えた“別格の存在”だ。当時の天武天皇や、妻の持統天皇は強大な権力者で、皇子(親王)たちが補佐をし、自ら政治を執り行っていた。奈良時代になると、天皇の下で「藤原不比等長屋王藤原四子橘諸兄藤原仲麻呂道鏡藤原百川」と、政権が目まぐるしく入れ替わり、最終的には藤原氏が最有力となるが、あくまでもトップは天皇で、地位や権威は安泰であった。

 

平安時代に少し様子が変わる。858年、清和天皇が9歳で即位すると、母方の祖父である藤原良房が、幼少の天皇の政務を代行する「摂政」に就任した。そして良房の養子基経は、884年に光孝天皇が55歳で就任すると、成人後の天皇を補佐する「関白」に初めて就任。これが「摂関政治」の始まりである。天皇が処世術として長けていたのは、摂関政治が始まると、母方の親戚(=外戚)である藤原氏に、政務だけを任せた点である。形式的に権威は保った状態のままだから、悪い話ではない。

 

一方、藤原氏天皇を排除して名実ともにトップに立とうとは考えなかった。圧倒的な権威を持つ天皇外戚として、政務を代行・補佐しているからこそ摂政や関白に価値があり、転じて自らの権威付けもできる。天皇の価値をあえて下げ、貴族の分際で暫定トップに立つことには、メリットがなかったのだ。このようなスタンスで、11世紀前半の平安時代後期には、藤原道長・頼通親子により摂関政治は全盛期を迎える。このように、変化する政治状況を巧みに利用しながら、古代の天皇は自らの地位や権威をキープし続けたのだ。

 

さて、平安時代末期、中世に突入すると、もと天皇により「院政」が始まる。外戚(=母方の父や伯父・叔父)として藤原氏の摂政・関白もいるのだが、父や祖父が皇位を退いたあとも新天皇の後ろ盾となり、政務をみることが常態化した。1086年、白河天皇が8歳の子(堀河天皇)に皇位を譲り、上皇太上天皇のち出家して法皇)となったのが院政の初めだ。この後、鳥羽上皇後白河上皇後鳥羽上皇などが院政を続けていく。

 

中世に院政が行われている間、鎌倉幕府室町幕府といった武家政権が誕生する。幕府は朝廷より軍事的には強大なパワーをもち、実質的に全国を支配していたわけだが、天皇上皇にとって代わろう、排除しようとはしなかった。源頼朝にしても足利尊氏にしても、朝廷から賜った「征夷大将軍」という地位で満足していた。なぜなら、権威を持つ朝廷から将軍に任命されることに価値があったからだ。新興勢力である武家は自らを裏付ける伝統的な権威がなく、軍事力だけで政権は長続きしないことを知っていたのである。

 

このように朝廷の天皇上皇)は、軍事力や経済力で上回る幕府の将軍に対し、ある程度の権威を承認するという方法で、自らの地位や権威を維持するようになったのだ。クレバーな処世術といえるだろう。戦乱期を経た近世の江戸時代も、基本的なスタンスは同じだ。江戸幕府は圧倒的に強い存在だったが、天皇は、政権を将軍に委任する伝統的権威の象徴として生き残った。幕末の大政奉還も、「幕府の将軍が朝廷の天皇から預かった政権をお返しする」という構図であろう。

 

朝廷の天皇は、その時点で最も強い勢力を持つ人物を積極的に承認することで権威を保ち続け、生き延びてきた。これは相対する勢力と直接戦って、やがて滅びていく運命をたどったヨーロッパの王朝とは、大きく異なる点なのである。基本的に天皇が率いる朝廷は処世術に長けていて、幕府と持ちつ持たれつの関係をキープしながら単一王朝を維持してきたといえるだろう。

 

 

天皇とは日本人にとってどんな存在か

巨大な経済力・軍事力をもつ江戸幕府は、その気になれば朝廷を滅ぼすこともできたはずだ。なぜ、そうしなかったのか。すでにおわかりであろう。ここまで述べてきたように、朝廷の天皇と有力な権力者は、持ちつ持たれつの関係を維持してきた。朝廷は時の権力を承認することで利用し、一方の権力者は天皇の権威を借りることで統一を進めた。権力者は天皇に権威づけてもらわなければ国をまとめ、政権を維持することができなかったのである。

それゆえ、朝廷の天皇勢力が当時の権力者に本気で逆らった「承久の乱」や「建武の新政」の際も、朝廷の天皇そのものを滅ぼすという発想はなかった。これは細かく歴史を振り返ってみても、終始一貫した日本独自の国民性といえる。たとえば、飛鳥時代蘇我馬子。当時は相当な権力者であったが、本人が大王になろうとまではしなかった。平安時代藤原道長平清盛もそう。2人とも、自分の娘を天皇に嫁がせて外戚となり、権威を利用しただけである。

 

室町幕府の3代将軍・足利義満も、天下統一直前だった織田信長も、天皇になろうとか排斥しようと思ったことはない。天下を統一した豊臣秀吉も、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていたが、あえて関白に就任している。天皇の補佐をすることで、農村の足軽出身という出自の低さをリカバーしようとした。日本史上最強である徳川家康の一族でさえも、朝廷の天皇から代々征夷大将軍内大臣に任命される道を選び、朝廷を潰そうとはしなかった。明治時代以降も、どんなにいいポジションにいても、誰一人として天皇に成り代わろうと考えた人物はいないのである。

 

そういう意味では、太平洋戦争後、GHQマッカーサー天皇制を維持した判断は正しかったといえそうだ。天皇や国のために神風特攻隊や人間魚雷として命を投げ出すような国民だから、天皇制を廃止してしまったら何をするかわからないし、日本はまとまらないと考えた背景には、これだけの歴史があったのだから。

 

 

・企業における天皇制とは?

このように、日本国には今上帝まで125代、2700年にわたって万世一系天皇が存在しているという事実がある。これほどの国家は他にない。世界最長の国家なのである。その秘訣が、どうも天皇制と関係していそうだということは上記にも記載した通りだ。

 

であれば、第6次元:日本国という生命体に習って、第3次元:会社という生命体もまた、同じように長く存続できないものか?なにせ、会社という生命体は、あまりにも短い命なのだ。平均寿命が24歳程度という、極めて短命なのだ。世界最古の会社はというと、社寺建築の金剛組が1400年もの年月を経て、現在もまだ生き残っている。これほど長いのは難しいとしても、せめて平均寿命が100歳を超えるほどにならないものか?と考えてしまう。そのヒントが、天皇制というわけだ。

 

仮に、天皇制を企業に導入した場合、どのようなイメージになるのであろうか?そのイメージに近しいのが、以前からご紹介しているリコー三愛グループだ。こちらを参照。

 

リコー三愛グループの創設者は、市村 清氏だ。市村氏が説く「三愛精神」こそが、リコー三愛グループの象徴的存在となっており、代々受け継がれていき、変わらぬ会社精神となっているのだ。

 

「三愛精神」とは、『すべての動物に自己保存があるように、人間も本能的に自己を愛する。下等な人間でも自分だけは愛している。平凡な人間になると、妻子を愛し、両親を愛し、兄弟を愛する。すこし上等な人間になると、隣人愛にめざめ、次には民族を愛し、祖国愛となり、さらに進めば世界の全人類を愛する。それがなおも徹底すれば、すべての動植物、ありとあらゆるものを自分と同じように愛し、ついには自己以上に愛するようになる。そのためには、自分を犠牲にしても惜しくない大きな愛の高まりにまで徹する。この境地は、すでに仏であり神であろう。お釈迦さまやキリストがそれである。このように、愛の深さと広さとが、どのくらいの段階に達しているか、それがその人間の本当の価値を決定するものであると確信する。』

 

この「三愛精神」を受け継ぐのが三愛会と呼ばれる会であり、その傘下にリコーグループ三愛石油グループがある。三愛会の活動内容は、三愛会会誌の発行、市村清氏の著作物の発行、愛の手募金活動、三愛会支部活動、となっている。つまり、会社経営とは一線を画し、三愛精神の維持・継承に力を注いでいるという事だ。これはまさに企業内の天皇制に近い運営なのであろう。

 

三愛会という象徴的存在を、リコーグループの各社、三愛石油グループの各社が権威として利用しつつも、それに取って代わるわけではないという、絶妙なバランスを保って維持されていると言える。このような構図が保ち続けられれば、リコー三愛グループは、100年、200年、500年、継続して存続できうる企業になるのかもしれない。我々がお手本とすべき、企業における天皇制のイメージなのかもしれない。

 

ただ、いかんせん危ういところもある。三愛会のトップは、常に㈱リコーの歴代社長が就任している。結局は、三愛会という名のホールディングス傘下に、リコーグループ、三愛石油グループがぶら下がっているという構図になりがちだ。これでは意味がない。他のホールディングス会社となんら変わりない構図になってしまう。そうではなく、三愛会は、まさに天皇のように、象徴的存在であるべきで、㈱リコーの歴代社長が就任しない方が良いのかもしれない。もっと別の人、例えば、「三愛精神」の研究者や日本国の理化学研究所の歴代所長など、会社経営者とは全く別の存在の方の方が良いのだろうと思う。

 

いずれにしても、我々は、このような天皇制のイメージを模倣することは有益であろう。このような概念を是として、各企業が象徴的存在なるものを会社に導入できれば、もっと長く安定した会社づくりができるのかもしれない。